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フィリピン、日本間の交流史

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コラム|人物紹介
2018年07月13日

フィリピン、日本間の交流史

 

 

フィリピンは日本から遠い国の様に感じる人は多いのですが

日本の最西南端(与那国島)からフィリピンの最北東端までは500Km足らず。

実に東京―京大阪の距離と大差ない。

陸続きであれば東海道五十三次と同じ、歩いて行ける距離なのです。

距離が近いので昔から日本との交流は盛んでした。

 

 

「フィリピンへ渡った先人達」

 

室町時代以降の南蛮貿易はフィリピンとの間で盛んで、

堺の呂栄助左衛門は交易で巨富を築いている。

キリシタン大名として有名な高山右近は最後マニラに逃れ没しています。

NHK大河ドラマ「真田丸」や「軍師官兵衛」に登場したことは記憶に新しい。

 

 

【呂宋助左衛門】

 

 

 

スペインが征服していたフィリピンに渡り、国際貿易を行うと巨万の富を得た。

豊臣秀吉に対して、生きた麝香獣2匹、ルソン壺(呂宋壺)50個、

麝香、真壺、唐傘、香料などを献上したことが記録に残っている。

 

しかし、あまりにも豪勢な生活ぶりは、

天下人・豊臣秀吉の権威をないがしろにしているとして、

石田三成らの進言により、屋敷や財産没収処分となった。

 

 

ただし、事前に察していたようで、

贅沢な邸宅や財産を菩提寺・大安寺に寄進したのち、

ルソンへ脱出し日本人街で暮らしたと言う。

 

 

別の説では、献上したルソン壺が、現地人の便器だと発覚したことから

豊臣秀吉の怒りをかったとも言われている。

 

 

スペインがカンボジアに介入すると、

呂宋助左衛門はカンボジア(柬埔寨国)に渡り、

カンボジア国王の信任を得て日本から訪れる商人の「元締め」となり、

現地でも豪商として腕を鳴らしたとされている。

 

 

 

【高山右近】

 

 

 

天文21年(1552年)、摂津(大阪)で高山友照の嫡男として生まれ、

キリシタンだった父により洗礼を受け、「ユスト(ジェスト)」の名を授かった。

 

天正6年(1578年)、村重が信長に反旗を翻し、

高山家もどっちに付くか城内で分かれたが、

右近は信長の下へ出頭し、高山家とその領地は安堵された。

 

本能寺の変後では羽柴秀吉につき、賤ヶ岳の戦いで守勢で苦戦を強いられ、

小牧・長久手や四国などの戦いにも参戦。

 

天正13年(1585年)に播磨国明石城主となったが、

豊臣秀吉がバテレン追放令を出し、各地のキリシタン大名は棄教したが、

右近だけは棄教せず、それまでの地位や財産を投げ捨てて出奔してしまった。

 

その後は小西行長や前田利家の庇護を受け、

小田原城攻めでは前田勢に従軍し、関ヶ原の戦いでは東軍に与した。

 

江戸時代、加賀で暮らしていた右近だったが、

慶長19年(1614年)に徳川家康のキリスト禁教令を受け、

加賀を去って内藤如安とともにフィリピンのマニラへ向け国外退去した。

 

現地ではスペイン人のフィリピン総督であるファン・デ・シルバ達から

厚い歓迎を受けたが船旅の疲労や慣れない気候の為、

間も無く病気に罹患して慶長20年1月8日(1615年2月4日)に客死した。享年64歳。

 

世俗に惑わされずただひたすらに信仰に生きたその姿勢から、

死後程なくして列福運動がマニラで始まったが、

様々な歴史的事情で長らく列福に至っていなかった。

 

20世紀後半に管轄を日本へ移して調査が進められていたが、

2000年代後半にようやく動きが本格化し、

「殉教者」扱い可能とのバチカンからの見解提示もあり、

2012年夏に殉教者として列聖省に申請された。

 

2015年6月に神学審査委員会の審査を通過、

2016年1月19日に枢機卿会議の承認を経て、

2日後の1月21日に教皇フランシスコの裁可が降り、福者となることが確定した。

 

 

江戸期の鎖国時代、交易は途絶えていますが明治になると復活。

例えばフィリピンから輸出された麻のロープ(マニラ麻、アバカ)は

大日本帝国海軍をはじめ日本で広く使われたのでした。

輸出の為ミンダナオのダバオには大きな日本人町が形成され

今でもミンタルという地名にその名残を留めています。

(北海道にもミンタルと言う地名がありアイヌ語で広場の意味だそうです。

ダバオのミンタルも北海道からの入植者が名づけたものと推測しますが確かな証拠はありません。)

 

太平洋戦争の前まで民間レベルでの活発な交流が行われていたことを今一度認識すべきなのかと思います。

 

 

戦争が終わってから敗戦により日本は貧困を極めました。

そこに進駐してきたのがいわゆる進駐軍ですが

米兵に混じりフィリピン人の兵士も多く日本に駐留しました。

 

そこで日本人女性は財のあるフィリピン兵と結婚し

フィリピンに多くの女性が渡っていったのです。

特に沖縄出身の女性が多く今でも多くの方がお元気でフィリピンに暮らしています。

(夫の兵士だったフィリピン人は先だって未亡人になっているケースが多い)

 

時代とともに大きく変化し今では日本が経済において

大きく引離しリードしていますがかつてはこんな時代もあったのです。

 

 

 

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